嘉納治五郎の柔道と教育28 柔道の理想と原点

青少年が異なる地にいって稽古し、ホームステイをする機会が有益な機会であるとしても、わざわざ柔道でやらなくてもいいのではないか。サッカーでも野球などの他のスポーツ、また、学問や音楽や芸術などスポーツ以外の様々なものがある。何故柔道でなのか。

今回はこの点について、柔道の理想(長期的な目標)という見地からみていきたい。

結論を先にいうと、柔道の理想や長期的な目標を「リアルに」追求したならば、現状の仕組みだけでは足りず、新しい仕組みを創る必要があるのではないか、という点にある。

原点に立ち戻ることの意味:「本を読んでいるこの俺が狂ってるのか・・」

平成13年、講道館及び全日本柔道連盟は「柔道ルネッサンス」を立ち上げたが、ここから分かることは、日本各地の指導者の次のような認識である。

  • 勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道では、教育として十分な効果を出すことはできない
  • 柔道が教育として成果を出すためには、嘉納という原点に立ち戻る必要がある

・・柔道がこのように普及してきた理由は、競技としての魅力だけでなく、創始者嘉納治五郎師範の位置づけられた柔道修行の究竟の目的である「己の完成」「世の補益」という教育面が、世界の人々に受け入れられたことに拠るものと思われます。師範は競技としての柔道を積極的に奨励する一方、人間の道としての理想を掲げ、修行を通してその理想の実現を図れ、と生涯を懸けて説かれました。

講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることは勿論、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、’師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げます。・・

http://www.kodokan.org/j_renaissance/index.html

現状がうまくいかなくなったとき、原点にもどり、そこから再生するという営みはよく行われる。著名なものでは、ギリシア・ローマ文化という原点に立ち戻りヨーロッパを再生したルネッサンス、聖書という原点に戻ったヨーロッパの宗教改革、皇室という原点に立ち戻りそこから近代化をすすめた日本の明治維新などがあげられる。

本稿も柔道の原点である嘉納の考えや活動をみてきたが(第1回から第25回)、それでは「原点に立ち戻る」とは、「’師範の理想とした人間教育’を目指す」(柔道ルネッサンス)とは、そもそも一体どのような営みなのだろうか。

原点に回帰し再生を遂げた例として、先にヨーロッパにおけるマルティン・ルターの宗教改革が挙げたが、「切りとれ、あの祈る手を」を著した思想家佐々木中氏は、「本を読む」ということの意義を語るなかで、原点である聖書を「読んでしまった」ルターについて次にように語る。

思い出しましょう。われわれは何を論じていたのでしたか。本を読むということはどういうことか、読み書き翻訳するということはどういうことか、ということについてでした。ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼の苦難はここにあります。ここにこそ。どういうことか。

彼は気づいてしまったのです。この世界には、この世界の秩序には何の根拠もない、ということに。聖書には教皇が偉いなんて書いていない。枢機卿を、大司教座を、司教座を設けろとも書いていない。皇帝が偉いとも書いていない教会法を守れとも書いていない。「十戒を守れ」と書いてあるだけです。修道院をつくれとも書いていない。公会議を開けともその決定に従えとも書いていない。聖職者は結婚してはいけないとも書いていない。贖宥状どころの話ではない。何度読んでも書いていない訳です。むしろ逆のことが書いてある。

(中略)

他の人は全員、この秩序に従っているのですよ。この世界はキリスト教の教えに従ったものであり、ゆえにこの世界の秩序は正しく、それには根拠があると思っている。みんな。ルター以外。教皇がいて皇帝がいて枢機卿がいて大司教がいて司教がいて修道院があって、みんな従わねばならない、と。でも何度読んでも聖書にそんなことは書いていない。

本を読んでいるこの俺が狂ってるのか、それともこの世界が狂っているのか。

(佐々木中「切りとれ あの祈る手を」58~59頁)

原点に回帰するとは、「本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか」という問いが生じるぐらいの苦難なのだろう。この問いをキーワードにして以下みていきたい。

嘉納の理想

さて、嘉納は、精力善用・自他共栄という概念を創り、その普及活動のため講道館文化会を設立したが、そこには次のように記載されている。

□設立趣旨

輓近世界の大勢を察するに、国際関係は日に錯綜を加へ、国々互に融和提携しなければ独立を維持することが困難になって来た。従って、吾人は、今日の状態に満足せず進んで広く世界に友邦を得ることに努めなければ、国家の隆昌を期することが出来ぬ。

顧みて今日の国情はといへば、国民に遠大の理想なく、思想は混乱し、上下奢侈に流れ、遊惰に耽り、地主は小作人と反目し、資本主は労働者と衝突し、社会至る処に名利権力の争いを見るのではないか。一刻も速にこの境涯より我が国を救い、世界の大勢に順応することの必要なるのは識者の均しく感を同じうする所である。

この時に臨んで我が同志は、多年講道館柔道の研究によって体得した精力最善活用の原理を応用して世に貢献せんと決心し、新に講道館文化会を設くることにした。

大正11年 講道館文化会会長 嘉納治五郎

□宣言

本会は精力最善活用に依って人生各般の目的を達成せんことを主義とす

本会はこの主義に基づいて、

  1. 各個人に対しては身体を強健にし智徳を練磨し社会に於いて有力なる要素たらしめんことを期す
  2. 国家に就いては国体を尊び歴史を重んじその隆昌を図らんが為常に必要なる改善を怠らざらむことを期す
  3. 社会に在っては個人団体各互に相助け相譲り徹底せる融和を実現せしめんことを期す
  4. 世界全般に亙っては人種的偏見を去り文化の向上均霑に努め人類の共栄を図らんことを期す

□綱領

  1. 精力の最善活用は自己完成の要訣なり
  2. 自己完成は他の完成を助くることに依って成就す
  3. 自他完成は人類共栄の基なり

(参考)第4回第4回 将来臍を噛んでも取返しのつかぬようなことに立至る。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

ここには、柔道が目指すべきものが書かれているが、これを「読むこと」ができるだろうか。

このような内容は嘉納の著作の至るところに書かれている。

まず労働争議や小作争議を見るがよい。争議の結果は何時でも双方失うところ多くして得るところは少ないのである。彼らが争わず、譲り合い助け合って、双方に比較的利益が多く、損失の少ない一致点を見出すことに努めたならば、当事者相互のためにも、国家のためにもこの上ない仕合せである。階級の争いも、政党の争いも同様であって、すべて自他共栄の原理により解決しなければならぬ。今日全国民が自他共栄の指導原理によって陶冶されていたならば、昨今各方面に見受ける紛擾も、争闘も見ないで済むことであろうと信じる。

一方、また精力善用が指導原理となって全国民に徹底していたならば、今日のように、多数懶惰に日を送るものもなく、奢侈贅沢な生活をするものもなく、無駄に金銭を遣い財物を費やすものもなかろう。さすればいわゆる貧者も他人の厄介にならず、いたずらに他人の成功を羨まず、愉快に自分の力でこの世に立って行くことも出来ようし、富をなしたものもそれを自己のために遣うばかりでなく、世のため、人のために使用して貧富の懸隔を少なくし、富者と貧者との間の反感を消滅せしむに力あることと思う。

また今後ますます複雑にならんとする国際関係もこれらの指導原理によって折衝協定すれば、融和協調が容易に望み得らるるだろう。そこでこの際私は大決心をするに至ったのである。私は、今年取って七十四歳になる。物心が出来てから約七十年の経験をつみ、講道館創設してからでも満五十年になる。そこで今日までの仕事をもって一段落として、今後新たなる活動を始めようと思う。

それは何かといえば、世界に柔道の技術を普及すると同時に、その根本原理である精力善用自他共栄の本義を宣明し、国際の関係を円満にし、人類の福祉を増進せんとする運動である。(嘉納・著作集2巻146~145頁)

講道館文化会の宣言に「人類の共栄を図らんことを期す」と書いてあるとおり、嘉納は柔道をもって「人類の共栄」を実現しようとした。

それでは、現在の柔道は「人類の共栄」を実現しようとしているだろうか?

例えば、今日(2011年1月16日)の新聞を見ると、国際面では、チュニジアの大規模なデモ、中国軍の北朝鮮への進駐、国内面では、葬式代を支払うことが出来ず母の死体を2年間放置した子が逮捕というニュースが報道されている。これらの問題を柔道で解決することができるだろうか。

これらの問題を柔道で解決できるという話をあまり聞いたことがないし、大半の人々が柔道とは無縁のニュースと考えている。

しかし、嘉納の著作にはこれらの問題は柔道によってこそ解決できると書かれている。

そうであるとすると、現在、誰もが「柔道」だと思っているものは本当に「柔道」だろうかという疑問が生じてくる。

誰もが柔道と思っているものが実は柔道ではなかったら?

既に何度か引用したが、嘉納の柔道とは次のようなものである(中学生向けの教本)。

およそ人としてこの世に生れてきたからには、最も値打のある生活をしなければならぬ。値打のある生活とはどういうことかというに、個人としては、最も大いなる幸福を得ることであり、家庭または社会の人としては、家の内にいても、世間に出ても、両親はもとより、すべての人々に満足されることである。そうして国民としては、国家の元首たる天皇陛下を始め奉り、国民一般から、国のためになる人と認められ、広く世界の人々からも、人類の一員としてその本分を尽す人と思われるような行いをすることである。

浅はかな人は、自己の幸福を得ようと思えば、人のためや国のために尽くすことが出来ないように考え、自国にために尽くそうと思えば、他国の不利を図らなければならぬように考えるかもしれぬ。が、真に自己の幸福を得ようと思えば、人のためにも国のためにもなる仕方でなければならぬ。そうして遠い将来のことを考えるとき、本当に自国のためを図ろうと思えば、他国の人の幸福を妨げる仕方では、その目的は達せられぬのである。

そうしてみると、人間の本当の生活は、他人にも社会にも国家にも国外の人々にも、妨げをしないで自己の発達を図り、また自己の発達を図りながら、自分以外の人々に出来るだけ多くの利益を与えようとしなければならぬのである。それが人間の生活していくべき道である。そういうと人は、それならどうすれば、それらのことが衝突せず、どこから見ても都合のよい生活の仕方が出来るであろうかと問うであろう。私はそれは柔道という道を徹底的に修行すればよいと答える。

では、この現在の柔道を修行して、「人間の本当の生活」(他人にも社会にも国家にも国外の人々にも、妨げをしないで自己の発達を図り、また自己の発達を図りながら、自分以外の人々に出来るだけ多くの利益を与えようとする生活)ができるようになるのだろうか。

例えば、単純かつ一面的な視点ではあるが、現在の柔道は、国際柔道連盟を頂点として、選手権大会の運営を中心に組織化され、上から下まで、誰が一番かをみんなで競っている。この世界にあっては「勝負は勝たなければならない。勝利以外に価値はない。結果がすべてだ。」であるという言葉が横行し、また一部の学校では「柔道だけやってればいい。勉強しなくてもいい。」と言われるという。

もし現在の柔道を修行し「人間の本当の生活」を学ぶことが出来ないと考えるのであれば、現在の柔道と称されるものは柔道ではない。

嘉納のテキストを読んでしまったばっかり、周りの誰もが、柔道だというものが柔道とは思えない。

これが「本を読んでいるこの俺が狂ってるのか、それともこの世界が狂っているのか。」という状況であり、このような苦難が生じることが、おそらく、原点に立ち戻るということの本当の意味なのだろう。

佐々木中氏の次の表現を借りるならば、嘉納の本を読んで、嘉納の考えていることが「完全に「わかって」しまったら、われわれはおそらく正気ではいられない。」かもしれない。

うっかり理解したら大変です。グリューンヴェーデルが「わかった!」と絶叫した瞬間何が起こったか。カフカやヘルダーリンやアルトーの本を読んで、彼らの考えていることが完全に「わかって」しまったら、われわれはおそらく正気では居られない。書店や図書館という一見平穏な場が、まさに下手に読めてしまったら発狂してしまうようなものどもがみっしりと詰まった、殆ど火薬庫や弾薬庫のような恐ろしい場所だと感じるような、そうした感性を鍛えなくてはならない。佐々木中「切り取れ、あの祈る手を」30頁

精力善用・自他共栄

「精力善用・自他共栄」も同様である。現在、この言葉は、現在、ほとんど聞かれないが、これはある意味当然なのだろう。うっかり理解したら大変なことになる。

佐々木中氏は、哲学的概念の恐ろしさについて次のように語っている。

詩人ハインリヒ・ハイネは思想の力を侮るなかれと警告を発しています。大学教授の静かな書斎のなかではぐくまれた哲学的概念が一文明を破壊してしまうことがあるのだ、とね。ハイネ曰く、カントの『純粋理性批判』はヨーロッパの理神論の首を切りおとし、ルソーの本はロベスピエールを介してアンシャン・レジームを壊滅させた血まみれの武器であり、―そして彼は、フィヒテやシェリングのロマン主義的観点は、いつの日にか恐ろしい結果をもたらすだろうと予言しています。

政治学者アイザリア・バーリンは、この予言は必ずしもすべて外れたわけではなかったのだ、と言いつつ、こう述べている。「ところでもし、大学教授が真にこの運命を決定する力をふるいうるのであるならば、その力を奪い取ることができるのもまた他の大学教授のみである、ということになりはしまいか。」マルティン・ルター博士が大学教授であった、などと、今更指摘するまでもないでしょう。(佐々木中「切り取れ、あの祈る手を」78頁)。

嘉納は、東京高等師範学校の校長、今でいう筑波大学の学長である。大学教授である嘉納が40年以上かけて創りあげた哲学的概念、「精力善用・自他共栄」は、文明を破壊する力又は破壊する力を奪い取る力を秘めた可能性があり、そのうえおそろしいことに、この概念は、柔道という身体動作と結びつき血肉化する。

『代表的日本人』を著した斎藤孝氏は、これを「概念の技化」という。

嘉納治五郎が唱えた「精力善用」や、様々な理念・観念は、常に身体を動かすことと結びつけられているところがポイントです。普通、観念は、観念の世界、実地は実地の世界とまったく区別されていますが、治五郎の場合は、実施に即して観念を身につけていこうとしました。概念を技化していくという視点が重要です。 これが上達の普遍的原理となります。

ただ柔道が強くなればいい、というのではありません。めざしているのは精力の最善活用であり自他共栄なのであって、その概念を技をとして身につけるために柔道があるのである。そして、そこで身につけたものを、生活のすべてに広げなさい、と治五郎は説いたのでした。もちろん、身体を丈夫にしたり、闘う気構えを持つ教育は「武」の中にあるのですが、それが最終地点ではありません。柔道が強くなり、併せて人格形成ができるというだけではありません。概念を技として、普遍的に活用できるようになって始めて、治五郎のめざすところが実現するのです(斎藤孝『代表的日本人』92頁)。

もし「概念の技化」を本当に身につけたならば、「精力善用・自他共栄」を血肉化したならば、どうなるだろうか。

端的にいうと、嘉納のように生きなければならなくなる。

印象的なエピソードがある。

嘉納は、オリンピックを日本に誘致するための海外の会議に出席し、その帰路の船上で亡くなった。その出発のとき、嘉納は、駅のホームで多くの人から見送りを受けて列車に乗ったが、直後、人知れず自宅に戻ったという。教育事業に要した多額の借金の処理が終わっていなかったからである。

「精力善用自他共栄」を血肉化したら波乱万丈がまっているかもしれない。これを無意識的に拒絶するのはある意味当然なのだろう。拒絶すればスポーツ以外の場に関わらなくてもいい。

嘉納の理想を追求する方法

しかし、もし、嘉納のテキストを読もうとするならばどうしたらいいだろうか。例えば、次のような嘉納の憤りを読もうとするならば。

今日世界の実際を見るに、人々は如何に不必要な争闘をして互いに力の削り合いをしているのであるか。人を害し人に禍をなすことはあたかも天に向かって唾するようなもので、やがてその禍は己に戻って来るのである。人を助け人に福を与えてこそ己にもよいことが戻ってくるのである。

この簡単なる理屈が分からず、人は絶えず衝突し、争闘しているのである。精力善用・自他共栄の主張とて争うべきことを争い、論議すべきこを止めよというものではない。不必要であり有害なる争いを止めよというのである。

この道理を理解して事に臨むなら、今日の争いは十中の九まには平和的に解決すべきものと考えられる。世の人は何故にこの見易き原理に基づいて行動しないのであるか。

少なくともわが講道館員と文化会員は自らこの主義を実行することはもちろん各自の力の及ぶ限り世を指導をし、誘掖して貰いたいのである。(嘉納・著作集2巻118頁)

あまねく人々が、「人間の本当の生活」をできるようになるためにはどうしたらいいだろうか。柔道によって「人類の共栄を図らんことを期す」のであれば、どのような方法があるだろうか。

このように考えれば(本稿が「読んだ」とは到底いえないが、それでも)、自然と本稿で検討している仕組みが有益な選択肢の一つとして上がってくるだろうのではないだろうか。

異国の地にある道場で稽古すること、その機会を提供することは、既に多くの先人によって行われてきたことであり、目新しいものではない。必要なのはその機会を増やすこと、それだけなのである。

これまでの柔道の仕組み

以下簡単に既存の仕組みをみていきたい。主なものとして次の3つにふれる。

  1. 段級制度
  2. 学校体育への導入
  3. 選手権大会

1.段級制度

□経緯

講道館創立の翌年、嘉納が数え年24歳(明治16年、1883年)のとき、弟子である富田常次郎と西郷四郎に初段を付与したのが始まりという。従来の柔術は、目録、免許、皆伝など3、4段階であったのに対し、嘉納は、モチベーションの維持のため、囲碁や将棋において普及していた段級制度を導入した。

□効果

この段級制度は、第一に、本人のレベルと学びの道筋を明らかにして学習意欲を高める機能、第二に、講道館柔道を学んでいる者であることと学びの程度を外部に認証する機能(これはいわゆる「ブランド」を支える根本機能である)、第三に、構成員に序列をつけることによる組織の安定化機能などがある。

□財源

昇段の際に本人が費用を負担することにより、仕組みとしての永続性が確保されている。但し、本人負担のため、資力がある者が優遇されやすい。

□問題点

段を上げるための努力をしていけば、精力善用自他共栄を体得できるのであろうか?この点、本稿では検証できない。

2.学校体育への導入

□経緯

義務教育という制度が嘉納が13歳(明治5年1872年)のときに誕生。嘉納25歳(明治17年)のとき、学校体育のコンテンツを検討していた体操伝習所が剣術や柔術は学校体育の正課として不適当であると判断。中学校の正課(選択性)になったのは嘉納が52歳(明治44年)のとき。なお、嘉納は、勤務先(学習院、高等師範学校など)で課外授業として教えており、師範学校で学校の先生の卵に教えることにより、各地の学校に普及していた。

□効果

学校教育に取り入れられることにより、国民に広く柔道が普及。

□財源

義務教育の一環として財源は税になり、国民全般が負担。生徒は無償で柔道を学び、柔道指導者は体育教師として公務員になる。

□問題点

  • 国の政策に左右される(戦中は白兵戦の稽古になったという)。
  • 特定の年齢の者だけが対象となるため同質的な集団が形成される。多様性ある集団が形成されない。
  • 体育では、学校にいるときだけではなく、生涯にわたって運動をして心身の健康を管理するという力をつける必要がある。学校卒業後に柔道を続ける人があまりいないのであれば、体育としての効果は乏しいことに。

3.選手権大会

□経緯

国内では、嘉納が71歳(昭和5年、1930年)のときの第1回全日本選士権大会、世界では、嘉納没後18年後(1956年)に開催された第1回世界選手権大会が主な始まりである。

□効果

  • 試合の場があることにより、日々の稽古が充実したものに。
  • メディアを通じて大衆に柔道を見せることができ、大きく普及。オリンピックの柔道に参加した国は、1964年(東京オリンピック)は27ヵ国、その40年後の2004年(アテネオリンピック)は94カ国と3倍増。国を越えた普及に大きい効果があった。
  • オリンピックなどの選手権大会の運営ため、柔道関係者が組織化される。

□財源

柔道はメディアにドラマを提供し、メディアからその対価として放映料などを得て、メディアは大衆にドラマを提供し、その対価として広告主から広告収入を得、広告主は大衆が見るドラマの合間にCMを入れることで、その対価として、大衆による製品やサービスの購入を促す。つまり「プラットフォーム」ビジネス(第27回参照)の仕組みである。昭和5年の第1回全日本選士権大会は朝日新聞の後援を得て開催された。

□問題点

a)長期的目標より短期的目標が優先

柔道側は、このプラットフォームの中で、「勝つか負けるか」というドラマを提供して対価を得ているため、この仕組みの中では「道の体得」よりも「勝ち負け」や「ドラマ」が優先される。長期的目標が損なわれても短期的目標を追求するというインセンティブが働く。

例えば、この仕組みの中でも以下のような変更が。

  • 無差別級と重量級が実質的に変わらないということで(?)、国際オリンピック委員会は、1988年、オリンピックからの無差別級を廃止、
  • 勝ち負けを容易に決めるため、1974年 「有効」「効果」が採用
  • 観客が見やすいように、1997年、ブルー柔道着が採用。
  • ドラマ性に欠けるため(?)、1997年 押さえ込みの時間が30秒一本から25秒一本に。
  • 勝ち負けを決めるため、2003年、延長戦「ゴールデンスコアー」が導入

(参考)「現代武道の諸問題-武道の国際化に伴う諸問題-」 404 Not Found 指定されたファイル(URL)がみつかりません

b)武術性が低下

柔道は、本来、パンチキック、ナイフなどあらゆる攻撃に対応する「武術」であったが、内部で競う必要からルールを設定したところ、ルール外からの攻撃を想定しないスポーツになった。

最後に

以上ざっと柔道の主な三つの仕組みをみた。最近だと、第2の学校体育については、国内で平成24年から武道が必修になり、第3の選手権大会では、ランキング制度ランキング制 (柔道) – Wikipediaが導入されるなど、それぞれの仕組みのなかで改革が行われている。

しかし、改善するとはいえ、今後、この仕組みを続けていくだけで「人類の共栄を図らんことを期す」(講道館文化会)という柔道の理想が達成できるだろうか。

本稿は、新しい仕組みが必要である、という考えである。以上、今回は柔道の理想という視点から新しい仕組みの必要性にふれたが、次回は、教育の目標という視点からみていきたい。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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