本稿は、柔道ルネッサンスが提起する問題から始まり、第1回から今回まで、以下のような枠組のもとで嘉納の柔道と教育をみてきた。
- 柔道は、本来「人間教育」を目的として創られたにも関わらず、「昨今の柔道」は「勝ち負けのみに拘泥しがち」であり、「人間教育」として十分な効果をあげていないのではないか。柔道が「人間教育」として十分な効果をあげるためにはどうしたらいいか。
- 仮に、「人間教育」として十分な効果を挙げていないとしたら、その原因は、本来、長期的目標(「己の完成」「世の補益」、人間の道としての理想)と短期的目標(競技としての柔道における勝利)のバランスが重要であるにも関わらず、長期的目標を見失い、短期的目標のみを追求したからである。
- 長期的目標を見失わないようにするためには、長期的な目標は何か、柔道における「成果」は何か、を明らかにしなければならない。それはすなわち、「師範の理想とした人間教育」とは何か、柔道の創始者である嘉納治五郎が、誰を対象として、どのような人間を、どのような方法で育成しようとしていたのか、を知ることから始まる。
□柔道ルネッサンスの趣旨(抜粋)
柔道がこのように普及してきた理由は、競技としての魅力だけでなく、創始者嘉納治五郎師範の位置づけられた柔道修行の究竟の目的である「己の完成」「世の補益」という教育面が、世界の人々に受け入れられたことに拠るものと思われます。
師範は競技としての柔道を積極的に奨励する一方、人間の道としての理想を掲げ、修行を通してその理想の実現を図れ、と生涯を懸けて説かれました。
講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることは勿論、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、’師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げます。
ところで、嘉納は、「人間の道としての理想を掲げ、修行を通してその理想の実現を図れ、と生涯を懸けて説」いたが、もし、「勝ち負けのみに拘泥し」「師範の理想とした人間教育」が疎かになってしまったら、柔道はどうなってしまうだろうか。
つまり、柔道ルネッサンスの「昨今の柔道の在り方を憂慮」がもし現実化したら、柔道は、どうなってしまうのだろうか。
嘉納は、「世人は柔道を重んじなくなってしまう。」という。
柔道の修行が単に技術の末に流れて修養方面のことを閑却するに至れば、世人は柔道を重んじなくなってしまう。柔道の教員も技術ばかりを教えて人間を造ることに留意しなければ、生徒からも父兄からも軽んぜられるようになってもやむを得ない。(嘉納・著作集2巻277頁)
世の中が柔道を重んじなくなったからか否かは分からないが、柔道人口は減少しているという。
例えば、全日本柔道連盟の登録人口は、平成18年度まで20万人を超えていたが、平成19年度から20万人を下回り、平成21年は19万人を下回った。*1
また、各都道府県についてみると、例えば、青森県では、2003年度は3600人弱であったのに対し、2006年度は3100人強と、3年間で500名近く減少し(14%減)、中学校の柔道部数は、1993年124部(男子78高校、女子46校)であるのに対し、2006年度は、96部(男子57、女子42)、13年の間に28部も廃部となっている(23%減)。
3600人の人口が3年で500名も減少するペースで進んだら、単純計算した場合、8年後には誰もいなくなってしまう。中学校の武道必修化などの追い風があるため問題視されていないのかもしれないが、2008年夏、筆者が米国の東海岸にある道場を見学したとき、道場の先生から、日本から柔道がなくなるのではないか、というお話をいただいた。真顔でである。
私は、毎年、日本を訪れている。しかし、日本に行くたびに柔道をする人の数が減っている。実は、私は、本当に心配している。柔道の母国である日本から柔道がなくなるのではないかと。
では、柔道人口が増加するためにはどうしたらいいのか?
回答するためにはマーケティングが必要なのであるが、それはさておき、嘉納は、「技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば」、つまり、「柔道の修行者」が、技術とともに「知徳の修養」をすること、いわゆる「文武の両道」で研鑽を積み、「国家社会に大いに貢献」し「世人から尊敬を受くる」ようになれば、多くの人に受け入れられるだろうという。
かくして柔道が技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば、今日のようにある年齢であっても特にそういうことに趣味をもっているものばかりではなく、今いっそう一般的に行われるようになるに相違ない。遂には特殊の人の柔道でなく国民の柔道となることが出来よう。(嘉納・著作集2巻275頁)
柔道の技術は大切である。また貴重なものである。しかし、もし技術が単独に存在して智徳の修養に伴われていなかったならば、世人は左程柔道家を重んじないであろう。他の修養と離れた技術は、軽業師の技術と比較し得るものであって、特に取り立てて尊重する価値が認められまいと思う。柔道の修行者が文武の両道にわたって研究練習を積んでこそはじめて国家社会に大いに貢献することも出来、世人から尊敬を受くることも出来るのである。(嘉納・著作集第2巻89頁)
これは、とりもなおさず、柔道が長期的目標を見失うことなく追求したら、ということだろう。
これまで何度か引用したが、経営学者ドラッカーは、公教育の改善という長期的目標と組合員の保護という短期的目標のバランスをうまくとり、米国の公教育を改善した教職員組合の長であるシャンカーの話を聞いた後、次のように話している。
□ドラッカー
非営利機関にとって、あなたの経験からわかる本質的なことは、基本的な長期の目標から目を離すなということです。その目標に向って確実に進んでいくようにすること、そうすれば信頼が得られる。そして、どのような成果を狙っているかを必ず明らかにし、自分たちがそれに対して責任を持つということを必ず明らかにするということです。(P.F.ドラッカー「非営利組織の経営」173頁)
本稿は、「長期的目標に向って確実に進んでいくようにすること」が必要であり、そのためには、長期的な目標は何か、「どのような成果を狙っているかを必ず明らかに」することが必要であると考え、第1回から今回にかけて、嘉納の柔道と教育の内容をみてきた。
それがどの程度成功したのかは定かではないが、この点は今回で終えるとして、次は、試案ではあるが、柔道がその長期的な目標を追求するためには、どのような仕組みをつくればいいか、という点をみていきたい。
「如何にすれば今日の柔道を国民の柔道となし得るか」
最後に、柔道の長期的な目標は何か、を改めて明らかにしておきたい。以下、嘉納が数え年73歳のとき(昭和7年)、「如何にすれば今日の柔道を国民の柔道となし得るか」というタイトルで発表した論文の抜粋である。
今日の柔道が創始せられたのは今から五十年前のことで、その頃は往時の柔術ややわらさえ殆ど全く世人から忘れられていて、広い東京にそれを教授する人を見出すに苦しんだ程であったということを考えて、当時を追想して今日を見ると、隔世の感があるといわなければならなぬ。
しかし、わが同士の理想とするところから見れば前途はまだ遼遠である。昭和六年も過ぎ今新たに七年を迎えるに当たり柔道の修行者に対し今一段の奮励を望みたいと思う。
そこで自分が第一に修行者に望むところは、柔道修行の目的を明らかにすることである。
往時の柔術は技術を学ぶと同時に武士の精神を養うこともその目的としただろう。しかし、柔術そのものは技術であった。したがって修行者は自ら技術の練習に励んで精神の修養は閑却した嫌いはないでもなかった。
今日の柔道は、道を体得することを修行の目的として、技術はその手段として練習することになっている。技術そのものの修行も価値があるのであるから、修行がそれにとどまっても差し支えのないことはもちろんであるが、道を体得し、かつこれを人生百般のことに応用することの出来る修養をすることに比すれば、そこに雲泥の差がある。
柔道を道として学んでもこれを体得する手段として用うる術は自然に覚えられるが、これを術としてのみ練習する時は何時までも道に達し得られぬのである。それが往時は柔術とかやわらというたのを私が柔道と改めた所以である。それ故に柔道は道を体得すること事が本当の目的であって、技術の練習は手段であるということを忘れてはならぬ。
毎々私がいうことであるが、この道に達するには方法はいくらでもある。あたかも富士山に登るには御殿場ばかりが登り口でない、須走からも吉田口からも登れる。しかし、目的とするところのものはきまっていると同様に、柔道の修行が目的として捉えんとするところのものはきまっている。
すなわち、何事をするにもその事を最も完全に仕遂げようと思えば、その目的を果たすために心身の力を最も有効に働かすにあるという一貫した大道を捉えることである。この大道を私は柔道と命名したのである。
この大道は学問をしてその理屈からも体得することが出来れば、実務上の実験を積んでそれからも体得する事が出来る。しかし、私自身は昔の柔術の技術上の練習からこの大道を体得したのであるから、同様の順序方法をもって人にもこれを教えようとして作り出したのが今日の講道館柔道である。
この方法を用うれば身体が強健になり武術が覚えられ、同時に精神の修養が出来るという三得が一挙に得られるのである。それ故に柔道修行の目的は、その大道を体得し、その大道に基づいて人事万般のことを遂行し得るようになることである。
そして、普通の手段としては、体育と武術を兼ねた練習によってこれを行うのであるから、人として世に処する道も明らかに分かり、精神の修養もでき、身体も良くなり、武術も覚えられるということになるのである。そういう次第であるから今日柔道を学ぶものはここに着眼して修行をしなければならぬ。
柔道の修行が単に技術の末に流れて修養方面のことを閑却するに至れば、世人は柔道を重んじなくなってしまう。柔道の教員も技術ばかりを教えて人間を造ることに留意しなければ生徒からも父兄からも軽んぜられるようになってもやむを得ない。
今日は競技運動でも精神教育の方面を重んずることになっている。競技運動の本来の目的は競技であるにもかかわらず、精神教育は相当に重んじている。柔道の本来の目的は、技術ではなく立派な人間を造るにあるのだから、教えるものも学ぶものもそういう方面のことに大いに留意しなければならぬ。
しかし、多くの教師には、どういう方法で教えればその目的が達せられるか準備が不十分かも知れぬ。そこで、この度私は柔道教本という本を書いて三省堂から発行せしめたのである。柔道の教育はその人々の年齢により素養如何により異ならなければならぬ。しかし、各種の人に適するものを同時に作ることは出来難いから、まず中等学校用に適するものを作ったのである。それを本として教師がおのおの工夫を加えれば、各階級の修行者に適用する事が出来ようと思う。今日はまだ第一巻だけしか公にしていないが遠からず第二巻も出すつもりである。教えるためばかりでなく教員自身の修養のためにも精読して貰いたい。
かくして、柔道が技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば、今日のようにある年齢であっても特にそういうことに趣味をもっているものばかりではなく、今いっそう一般的に行われるようになるに相違ない。遂には、特殊の人の柔道でなく、国民の柔道となることが出来よう。(嘉納・著作集第2巻275~279頁)
*1:全日本柔道連盟の事業報告概要 http://www.judo.or.jp/
*2:2007年10月27日付読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hitosite/hs_hs_07102701.htm
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。
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