これからの日本が繁栄するためにはどうしたらいいか。嘉納の答えは二つあった。
一つ目は、日本国民に対する教育、特に体育である。
国の盛衰は、国民の精神が充実しているか否かによる。
国民の精神の充実度は国民の体力に大きく関係する。
そして、国民の体力は国民一人ひとり及び関係する機関・団体等が体育(スポーツ)に関して、その重要性をどのように認識しているかによる。
出典:「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」
二つ目は、世界中の人々に、日本を理解してもらい、親しみをもってもらい、日本の味方になってもらうこと、すなわち、「ほんとうのカギは何人の敵を殺したかではない。本当のカギはどれだけ味方を増やせたかだ。」(ニュート・ギングリッチ元下院議長)というソフトパワーである。
この一つ目と二つ目を実現する具体的な方法が柔道であった。
それでは、これからの日本国の繁栄のため、柔道をどのように活用したらいいか。
それは、松前氏が指摘したように、「世界的規模」の「交流の場」、すなわち「世界の若者たちが柔道を通じて友情の絆をつくり、お互いの人柄を理解し、国の文化と国民性を理解していく」場を創ることであり、
本稿で検討している次のような仕組みを実施することである。
- 異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
- そして、可能であれば道場の関係者宅にホームステイをさせていただき、一定期間その地で生活すること、
以上が第36回、第37回でみた内容であるが、今回は改めて日本の戦略として整理していきたい。
「プラットーフォーム」
国家戦略として考えるうえでのポイントは、柔道とは「プラットフォーム」であるという認識を持つことにある。以下、平野敦士カール氏及びアンドレイ・ハギウ氏の書著『プラットフォーム戦略』(東洋経済新報社)を参考にしてみていく。
プラットフォームの典型は、ショッピングモールである。
ショッピングモールは、多くの小売店を一つの「場」に集めることによって多くの消費者を集め、小売店と消費者が出会う「場」を創っている。人気のあるショッピングモールであれば、消費者は満足するモノが購入でき、小売店は売上があがり、さらに、ショッピングモールを運営する組織も豊かになる。
このように「プラットフォーム」とは二つ以上のグループを結びつける「場」をいい、「プラットフォーム」戦略とは、そのような場を創ることによってグループ単独では得られない価値を創りだす戦略をいう。
おそらく、国家戦略として著名なプラットフォームは米国の大学だろう。
米国の大学は、米国内のみならず、世界各国から学生が集まり、これらの学生たちが相互に結びつく「場」になっており、このプラットフォームに参加した学生や教師は、一人で勉強したり研究したりしたのでは到底得ることのできない価値を得る。
そして、このプラットフォームを運営する米国は、コリン・パウエル元国務長官が「アメリカ国内で教育を受けている将来の世界の指導者との友情ほど、アメリカにとって価値の高いものは思いつかない」(ジョゼフ・ナイ「ソフトパワー」81頁)と指摘するとおり、強力なソフトパワーを得るのである。
このように「プラットフォーム」戦略とは、お互いを必要としてるようなグループが出会う「場」をつくり、出会った当事者は価値を得るのみならず、その「場」を創ったプラットフォーム運営組織もまた価値を得るという構造になっている。
この点、日本の国家戦略としても「プラットフォーム」戦略は立案されている。
経済財政諮問会議の「構造変化と日本経済」専門調査会「構造変化と日本経済」専門調査会:内閣府 経済財政諮問会議は、平成20年7月、次のような戦略を立案した。
- 人口が減少し、かつ資源に乏しいわが国が生きる道は、知的創造の拠点となることにある。
- 知的創造の拠点になるためには、「プラットフォーム」を創らなければならない。
- ここでいう「プラットフォーム」とは、「国境を越えて、新しい発想や昀新の技術、高度な人材が集まり、知的イノベーションが行われ、常に昀先端の付加価値が生み出される場である。内に向かっても外に向かっても開かれており、人材・資金・知識・情報が内から外へ、外から内へと自由かつダイナミックに移動するなかで、成長の源泉が生まれてくる場」である。
- このような「プラットフォーム」を創るためには、人材が適材適所で活かされる仕組みや、成長分野に円滑に資金が
流れる仕組み、ベンチャー企業が活発に参入できる仕組みが必要であるし、公正なルールに基づく市場も不可欠である。
つまり、「国境を越えて、・・高度な人材が集まり」結びつくことによって、それぞれが単独で活動したのでは不可能な産業を創りだすことを企図しており、そのような「場」を日本が創ることによって自らが成長する、という戦略を立案したのである。
プラットフォームとしての柔道
このプラットフォームという視点からみると、柔道とは、心技体の様々な点で成長したい人とそれを応援する人を結びつけ、単独で学習したのでは得られない教育上の価値を創りだす「プラットフォーム」である。
さらに、もし多くの人に支持されるようなプラットフォームを創ることができれば、プラットフォームを創った日本は大きな価値を得る。したがって、柔道を通じた日本の国家戦略とは、多くの人々が柔道を通じて結びつく「プラットフォーム」をいかにして創りあげるか、というプラットフォーム戦略にあると思われる。
例えば、前回ふれた第1回国際柔道連盟コーチ・審判セミナーをもとに以下みてみよう。昭和56年4月28日から10日間、日本の東海大学にて開催された国際柔道連盟コーチ・審判セミナーには、40か国、約100名の指導者が集まり、寝食をともにしながら、審判技術や教授方法などについて研修が行われた。
このセミナーに参加した「女子柔道の母」ラスティ・カノコギ氏は、「この催しには政治体制の違いを乗り越えて世界中から大勢の人が集まり、学び、交歓し、永遠の友情の絆を結ぶ場になったのでありました。この行事は松前氏の友好と平和への信念を行動によって示したものでした。また松前氏の指導による格闘技というものが、いかに平和を創造し得るかということを知りました。」という。
これは、まさしく(「柔道」というプラットフォームの中に)「国際柔道連盟コーチ・審判セミナー」という「プラットフォーム」が各国の柔道指導者を結びつけ、その結果、柔道とは、単なるゲームではなく「平和を創造し得る」ものという学び、すなわち、単独では生み出すことができない価値を生み出したことにほかならない。そして、このプラットフォームを運営した日本は、世界各国の指導者とのつながりというソフトパワーを得たのである。
参加者が得る価値
このようにプラットフォームとは、二つ以上のグループがつながり、それによって付加価値を生み出すことを本質とする。それでは、本稿で提案する仕組みである「異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をする」というプラットフォームはどのような付加価値を生み出すのだろうか。
まず、交流に参加した者に対する付加価値、教育上の効果があるが、この点はなぜこの仕組みが必要か、という点から何度もみた(第27回~第35回)
様々な価値観を持った人々との「他人の飯を食う・同じ釜の飯を食う」経験、「かわいい子には旅をさせよ」という格言に含まれる旅・冒険の経験、このような経験が本人を大きく成長させることは明らかだろう(第27回)。
また、柔道という視点から見た場合、例えば、第1回国際柔道連盟コーチ・審判セミナーに参加したラスティ・カノコギ氏が「格闘技というものが、いかに平和を創造し得るかということを知りました。」というように、「精力善用・自他共栄」をより深く学ぶことができるのである(第28回)。
同様に、教育という視点からみても、次のとおり、今、求められているのである(第29回~第35回)。
- 「変化」「複雑」「相互依存」というこれからの世界で、人と社会が豊かになるためには、知識や情報処理などの認知的要素の教育だけではなく、「コラボレーション」や「イノベーション」などに不可欠な態度、価値観、モチベーションなどの非認知的要素を開発する教育が必要がある。
- しかし、「空っぽの容器」に情報を一方的に流し込むかのような現在の教育はこの要請に対応できない。
- 認知的要素、非認知的要素を開発する方法として、二つのポイントがある。
- 一つは人との「つながり」である。例えば、教育学者の門脇厚司氏は、一人前の大人になれない子どもが増えている原因として、昔と比較して、子どもと大人が交流する機会が激減したことをあげる。人とのつながりこそ、非認知的要素を開発する方法である。
- もう一つは「運動」である。運動が抗うつ剤と同じ効果をもっているなど、最近の研究(特に脳)によって、「心」(≒非認知的要素)と「身体」の結びつきがようやく実証されてきた。古来から言われていたように、身体を鍛えることによって精神や心を鍛えることができるのである。
- 「つながり」と「運動」の双方をもたらす柔道(本稿で提案する仕組みを持つ柔道)は、これからの人々に切に求められる教育方法である。
道場やクラブが得る価値
さて、それでは、それを受け入れる道場やクラブにはどのような付加価値が生まれるだろうか。本稿は第27回で次のようにのべたが、もう少し詳細にみていきたい。
実際、地域にある道場は、コミュニティを形成し、子どもの教育を担ってきたが、ここでのポイントは、本稿で検討している仕組みを取り入れると、柔道コミュニティは、より豊かで、より教育効果の高いコミュニティになるのではないか、という点にある。(中略)
そして、地域の道場が、大人が協力して子どもを育てる多様性のあるコミュニティとなり、物質的にも精神的にも豊かな人間を育てる空間であると認知されれば、より多くの人が柔道を学ぶことになるだろう。
本稿の企図するところは、プラットフォームを創ることによって道場の教育効果を高める点にあるが、その結果は、社会的評価の向上や入門者の増加、収益の向上などに表れる。
近年、柔道を習いたいという人が減少し、さらに柔道の指導者も減少しているという。それでは、多くの人が先を競って柔道を習いたいとして道場の門をたたき、また、子どもたちの「なりたい職業ランキング」第一位に柔道の先生が挙がるためにはどうしたらいいだろうか。
嘉納はいう。
かくして柔道が技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば、今日のようにある年齢であっても特にそういうことに趣味をもっているものばかりではなく、今いっそう一般的に行われるようになるに相違ない。遂には特殊の人の柔道でなく国民の柔道となることが出来よう。(嘉納・著作集2巻275頁)
「一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば」とはどういう意味だろうか。
思うに、忍耐や礼儀正しさが身につくとか、粗暴な子どもが真面目になるなど従来から言われる効果だけではなく、高校や大学を選択する場合と同じように、例えば「ここにいけば将来いい仕事につける」とか「ここにいけば様々な分野で活躍できる」と思われる存在になること、要は「いい教育をわが子に提供したい」と願う親の期待に応えるようなプログラムを提供することではないだろうか。
この点、他の道場にいって稽古と寝食を共にするという機会が、人の可能性を広げることは明らかだろう。もちろんそれだけで足りるわけではないが、昇段制度や選手権大会という今の仕組みをそのまま運用しても現状を打開できるとは考えにくい。
現在、一般的な親の視点からすると、柔道はサッカーや野球と同じスポーツクラブとして捉えられている。しかし、嘉納の視点からすると、スポーツクラブとしての側面は柔道の一部であって全部ではない。
道場や柔道クラブが単独で活動する組織ではなく、全世界的に人を積極的に交換しあう組織になったとき、道場は、単なる「スポーツクラブ」から、「世界200か国のネットワークを活用してクオリティの高い教育環境を創りだす近未来型の普通教育機関」となる。
そうなったら、柔道はこれまで以上に「一般的に人間として必要な修養の方法と認められるように」なり、皆がこぞって道場の門をたたき、そして、より多くの人々が柔道の先生になりたいと思うのはないだろうか。
プラットフォーム運営組織
もっとも、このような取組みを個々の道場が単独で行うことは困難である。そこでこの取り組みをサポートするプラットフォーム運営組織が必要となる。
例えば、百貨店に出店するテナントは、駐車場やトイレを設置する必要がない。各グループが個別に対応するとコストも時間もかかるが、プラットフォーム運営組織(百貨店)が一手に引き受けると低コストで実現できる。
要は、参加グループに共通する本業以外の事務をプラットフォーム運営組織が引き受け、プラットフォームに参加したグループが本業に集中できるようにすることであるが、柔道を通じた交流の場を創りだすプラットフォーム運営機関の場合、人のマッチング、関係者のスケジュール調整、人の移動に伴い発生する様々な事務(移動や宿泊の手配)、柔道の稽古以外のプログラムの立案や実施、料金の決済、トラブルの処理など種々のサポートを提供する必要があるだろう。本稿はこのプラットフォームを運営するネットワークの形成を企図しているが、この点は改めてふれたい。
留意点
以上、柔道を通じた交流を盛んにし、日本のソフトパワーの向上を図るということは、プラットフォーム戦略というコンセプトで整理できることをふれたが、2点ほど留意点がある。
1点目は、ここでいう「日本」とは誰か、という点である。
日本の政府ではない。「われわれ」である。
国際柔道連盟の会長になった松前氏は、東海大学の新年会で次のようにいう。
昨年、私は国際柔道連盟の会長に立候補いたしまして、地球上を駆けずり回っていました。おかげを持って圧倒的多数で当選の栄を得たのでありました。私は痛切に、この経過をたどって感じることがあります。
日本国民は決して世界から憎まれてはいません。ありようにおいては、愛されています。日本の政府のやることに対しては非常な批判があるようですが、ところが日本人個人に対しては、やはり友情とそしてまた信頼を持ってかかってくる。これが、(私が)当選した大きな原因であると思います。このような意味において、われわれは悲観するにたらないのであります。
新しい時代の建設はわれわれ日本国民にあります。政府にはない。われわれにある。われわれにしかできない、ということを痛切に感じているのが現状です。本年以後において、私共は積極的に世界にむかっての活動を開始しなければなりません。柔道だけではありません。柔道などは単なる活動のパイプにすぎません。これらのパイプを通し、そして世界との友好親善、相互理解、また文化交流をと、あらゆる面において活動を続けることが東海大学の、世界に存在する理由になると思うのであります。(「松前重義国際活動Ⅱ」346~347頁)
「ソフトパワー」を提唱した政治学者ジョセフ・ナイ氏が指摘するとおり、文化に基づくソフトパワーは政府が直接コントロールできるものではなく、実際、柔道は日本政府の政策によって世界に普及したわけではない。ここでいう「日本」とは「われわれ」なのである。なお、上記の松前氏の発言は、東海大学の総長として東海大学の新年会での挨拶であるため「われわれ」とは東海大学の職員をさしているが、要は、国家意識をもつ人々ということだろう。
2点目は「日本」に限らないという点である。
日本以外もプラットフォームは創れるし、また創るべきである。ここでは、柔道の母国である日本がリーダーシップを発揮したほうがいいという趣旨であって、松前氏が国際柔道連盟の会長に立候補した以下の理由と同じである。
・・私がこのポストに立候補したのは、日本が生んだ世界競技の会長を、日本に取り戻すというような、偏狭なナショナリズムから生まれた発想からではない。日本で生まれたスポーツが国際化し、その連盟の長に外国人が就任することは、その競技が世界に認められたなによりの証明であり、ある意味では喜ぶべき事態ともいえるからである。
にもかかわらず、私があえてこのポストに立候補したのは柔道という、国際化したスポーツをさらに世界に広めてゆくためには、なんといっても、このスポーツの祖国である日本が、総力をあげて取り組んでゆくことが不可欠であると考えるのと、そのことが日本を世界に理解させ、国際社会の中での日本の地位を、戦力の拡充や経済力の強化といった、いま、わが国が世界各国から批判されている方向ではなく、平和、かつ友好的な方法で向上させてゆくうえで絶対に必要なことではないかと考えたからである。
日本のビジョン
それでは最後に、プラットフォーム戦略の先にある日本のビジョンをふれて今回を終わりとしたい。
嘉納は、大小数百か国がひしめく国際社会において、日本をどのような国にしようとしたのだろうか。嘉納はどのような日本を描いたのだろうか。
嘉納はいう。
世界の将来は、各国家の対立は依然今日の姿を継続するものと見るを当然と考えるが、社会的には、各国民は相接近し、文化も漸次渾一することは自然の勢いである。その時に当たって、わが国は多く他国に学び、我より彼らに教えるものがなければ、甚だ肩身が狭いのみならず、逆に軽侮を受けることをも免れ難いのである。
それでわれはかれらに何を教え得るかというに、柔道をおいて外に何があるだろうか。もちろん、個々の学者や研究家が日本の文化に就いて調べたり参考にしたりする事実はあるが、柔道の如く広く世界に行われ、ますます盛んにならんとしているものは外に何があるであろうか。
今回欧州旅行中目撃した事実に徴しても、柔道こそは日本が世界に教うべき使命を持っていると考えられるのである。今日こそ彼らの研究はなおわれらに及ばぬことが遠いということが出来るが、彼らの研究力は決して侮ることが出来ぬ。もしわれらが研究を怠る時は、他日われらは彼らの教えを受けねばならぬようになり、柔道の逆輸入を見ることがないと保証することは出来ぬ。日本は柔道において進んで外国に教うると同時に、その種の尽きぬようあくまで進歩向上に努めなければならぬ。(「嘉納治五郎著作集」109~110頁)
まず、「我より彼らに教えるものがなければ、甚だ肩身が狭いのみならず、逆に軽侮を受けることをも免れ難い」とは、逆にいえば、日本から世界に何か貢献することがあれば、日本は世界の人々から応援され(ソフトパワー)、繁栄することができるということである。
それでは「柔道こそ日本が世界に教うべき使命を持っている」とはどういうことだろうか。
嘉納は、講道館文化会を設立し、柔道を国内外に普及することによって「世界全般に亙っては人種的偏見を去り文化の向上均霑に努め人類の共栄を図らんことを期す」と宣言したが(講道館文化会宣言)、この講道館文化会をそのまま「日本」と置き換えれば分かりやすいだろう。
つまり、嘉納が描いた「日本」とは、柔道という教育システムの提供を通じて世界中の人々の教育を支援し、もって「人類の共栄を図らんことを期す」国である。
したがって、「柔道こそ日本が世界に教うべき使命を持っている」とは、「日本は、柔道という手法で人類の教育を担い、人類の共栄を図らんとする使命を持っている国」という意味だろう。嘉納は、日本を「人類の教育を担う国」として描いたのである。
そして、人類の共栄に必要不可欠である教育を(部分的にしろ)日本が担うからこそ、世界中の人々が日本の味方となり、日本は末永く繁栄する。
これが嘉納の描いた日本のビジョンであり、繁栄に至る道である。思うに、このビジョンに向かって、無数の柔道家が国内外で柔道の普及に努め、またオリンピックなどでマスコミを通じて多くの人々に柔道の素晴らしさを伝えてきたのではないだろうか。
日本とは一体どのような国なのか。日本人は自国をどのような国と認識し、また他国の人々は日本をどのような国と認識するのか。教育学者の斎藤孝氏はいう。
・・とにかく治五郎は近代史における日本の位置、世界の中での日本の立場を考え、「日本人ここにあり」ということを示すために柔道に着目したのでした。その着眼点は優れていたといえるでしょう。
なぜなら現在、柔道は世界中に知られていて、それが日本の伝統的な競技だというのはあまりに有名です。ほかに空手人口も世界的に見て多いですし、合気道もそうです。つまり「武」というものが、日本の文化的輸出品の中で大きなものになっているのです。
残念ながら日本人は、「武」が日本文化の中の最大の輸出品目であるという自覚をあまり持っていません。
しかし世界の人々は、日本を肯定的に評価する見方のひとつに、日本の「武」の精神を通じた人間形成の文化を挙げています。そしてそれに参加したいという外国人はたくさんいます。黒帯を締めて「武」の心を追求したいという外国人は跡を絶ちません。
たとえ日本の経済がどう崩れたとしても、「武」の精神を文化として世界に輸出した国であるという評価は残るはずです。ですから私たち自身が、「日本」という国の価値をたんに経済国家ということだけに置いてはいけないのです。
「武」は野蛮なものどころか、非常に高い文化を内包していて、人間形成の大きな軸になるものだということを世界中に広めた治五郎の功績は、計り知れないと言わなければなりません。
(斎藤孝「代表的日本人」79~80頁)
日本とは経済が豊かな国というだけではない。「武」による人間形成の文化を世界中に広めた国であり、人類の普遍的な教育システムを創った国である。
そして、これからの社会でこの教育システムを活用する方法とは、国内外で柔道を通じた交流を盛んにすることではないだろうか。実際、柔道を通じた交流は既に行われている。本稿は、単にこれを組織的に大規模に行うべきという提案である。
以上、新しい仕組みの必要性について「日本」という視点からみた。これまで「柔道」(第28回)、「教育」(第29回~第35回)、「日本」(第36回~第38回)という視点からみたが、次回は最後に「神話と通過儀礼」という視点からみていきたい。
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。
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